愛をくれ

DVDのインタビューについて批判(主に赤西に対して)しているブログを結構見かけた。当方も仲間だが、批判するにおいて一番忘れてはならないのは愛だな、と。色々な批判を読んで思った次第です。以下、自戒の念を込めて書いてみる。
まず最初に「愛って、なにかね」(田中邦衛にかぼちゃを持ってこられた菅原文太風に)ってことになるわな。
アイドルの批判をする場合、そのアイドルに対する愛は勿論あろう。文章を書くということは結構エネルギーと時間を使う事だし批判となれば相当に消耗するはずなのだ。愛無くしては書けない。むしろ愛あればこそ裏切られた(と感じた)時のマイナスの感情も大きくなるんだろうし、そりゃ書かずにはおられんだろうな、と思う。ブログに書いた人は、「王様の耳はロバの耳」と壷に向かって叫ばずにはいられなかった少年のような悲痛な心持なのだろうことは想像に難くない。ただ問題はその壷(ブログ)は衆人に公開されているということだ。その壷(ブログ)を覗き見てしまった人に対する愛を忘れてはならない。これは結構忘れがちになる。でもこれを忘れると反対に愛の無い攻撃にさらされたりする訳だ。
じゃあ読み人に対して愛のある批判というのはどんなもんだろう。考えてみたんだが、それは多分客観性じゃないかと思う。読む人を不快にさせる批判記事というのは大抵において主観のみで書かれている。批判する気持ちというのはそれ自体が主観なんだから、客観的に書けというのも無理な話だとは思うが。それでも書く場合においては批判する対象と批判する自分の両方を客観的に見る視点が必要だと思う。これが出来ているブログは愛される。まあ愛されたいとも思わないが、少なくとも不快感は与えないように気を付けたいものだなあと思うのだ。